「技術空洞 VAIO開発現場で見たソニーの凋落」を読みました。
ソニー本ってのは腐るほど出ていて、ビジネス書にソニーの名前をつけさえすれば、そこそこ売れるという浅はかなマーケティングがあるんだろうなーなんて日ごろ思っているのですが、ついつい釣られて買ってしまう浅はかな僕です(泣
暴露本ってのは、往々にして著者は評論家になってしまって自分の事を棚上げにして論を展開しがちなのですが、それでも元内部者だけに問題点はそれなりに的確についていたりします。
著者の宮崎琢磨氏は文系入社でVAIOの企画部門に配属されているのですが、技術者と共同で開発に携わっていたようで、主に技術者の視点からソニー批判を繰り広げています。
で、この宮崎琢磨氏の著書と、竹中真司氏の「ソニー本社六階」を読み比べると、技術者から見た視点と、事務方から見た視点を対比できて面白いです。
宮崎氏は、VAIOの開発現場に1998年に配属になり、それから2~3年は技術者が自分の理想を世の中に問うような開発、いわゆるソニー的「愉快ナル工場」を楽しめたといいます。出井氏が数値評価で現場を縛り始めたときにそれが崩壊し、VAIOの商品力、さらにはソニーの技術力自体が劣化し始めたと書いてます。まあ、大体が出井氏批判ですね。出井さんの技術軽視は有名で、知り合いのソニーの現場の技術者も殆どアンチ出井でした。この出井さんの現場軽視の姿勢が優秀な技術者の流出を招き、ソニーの現場崩壊を招いたと書いています。
それに対する竹中氏はバブル直前での経営企画室配属で、宮崎氏いわくの「本社様」です。こっちは、配属時にはすでに大賀典雄氏による恐怖政治で官僚化が進行していたようです。大賀氏独断によるコロンビアピクチャーズ買収、テレビ用ガラス工場立ち上げ等効果不明な投資で巨額の資金を流出させてしまい、巨額の負債を負ってしまい、ソニーの力を劣化させたと書いています。こっちは殆ど大賀氏批判です。独裁政治で幹部連中がみなイエスマンになってしまったことが人材流出と経営方針の誤りを招いたと。
つまりは、宮崎氏の入社の約10年前にはすでに事務方からソニーの崩壊は始まっていた、ということになりますかね。ソニーのカリスマ経営は伝統みたいなものなので、問題の根は深いかもしれませんねー。しかし、ソニーでも、事務方と技術系では、現場の雰囲気が全然ちがうもんなんですね。技術系は、いわゆるイメージされる「ソニー」な感じなのに対して、事務方は役所的というか、政治的というか、言ってみれば、他の会社と変わらない雰囲気ですね。それをことさら嘆いて本にできるのは、やっぱソニーの持つブランド力なのかもしれません。それと、宮崎氏はソニーの技術力は壊滅状態だという感じで書いていますが、少なくとも半導体に関しては、人と金を惜しげもなくぶち込んだおかげで、技術力は急上昇している印象があります。6、7年前まではソニーの半導体事業というとしょぼいの一言だったのですが、今では著名な学会での発表件数も増え、業界での存在感は増す一方です。まあ、最終製品の部署と半導体の部署では、これまたまったく雰囲気が違うんでしょうけどね。
ただ、読んでて重要なポイントだなーと思ったのは、カンパニー式の統治システムや、EVAなどの数値評価を取り入れた途端、現場の活力が無くなったくだりです。技術者の創造力というのは、自由な精神性に多分に裏打ちされているので、厳密な管理システムのもとでは十分発揮しにくいものなのです。経営側からは、管理システムをきっちり整備すると社内が把握しやすくなると考えるのでしょうが、革新的な技術は、いわば親の目を盗んだいたずらみたいなことから始まることも多いので、社内に「遊び」や「隙間」を残しておかないと、長期的な技術力が低下しやすいんですね。
翻ってみると、今の日本の半導体メーカーは長い低迷のおかげで、会社に「遊び」を残す余裕がなくなってきてます。ベテラン社員から聞くと、昔は「隠れプロジェクト」などと称して内緒で自分の興味のある技術を試作して研究した時代もあったみたいですが、研究所も目先の事業につながる研究優先だし、事業部でも余技の開発をやる余裕がありません。これが技術の種の枯渇を生み、日本から革新的な半導体製品が生まれない理由の一つにもなっていると思われます。たしかに、現在は試作一つにも数千万から億円単位の金がかかるので、「遊び」の仕事をしにくい面があるのですが、経営の数字には表れない「現場の活力」や「現場の自由度」を経営者はもっと大切にして欲しいなと思います。
技術空洞 Lost Technical Capabilities 著者:宮崎 琢磨 |
ソニー本社六階 著者:竹内 慎司 |
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